この乱と、守口・門真の関わりについて調べてみました。
で、「大塩の乱」はなぜ起こったのか?
という疑問から解決しようということで、門真市教育委員会市史編纂課の常松さんにお聞きしました。
大塩平八郎の乱は1837年に、当時大阪東町奉行所の与力(今で言えば警察本部長クラスの役人)だった陽明学者の大塩平八郎は、米不足の折に役人や豪商の不正を正して民衆を救おうと、大阪近辺の農民などを仲間にして計画し、起こしたものでした。
結局は、幕府に鎮圧され、平八郎をはじめ乱に加わった者の多くが処刑されてしまいました。
この乱は、幕府を転覆させようといったものではなく、実情を分かってもらうために起こしたものだったのです。
基礎知識を学んだ後は実際に、ゆかりのある場所からの中継。
林団員は、平八郎が勤めていた大阪東町奉行所があった大阪合同庁舎1号館前から、平八郎が住んでいたところまでを歩いて移動。
家の跡は造幣局の敷地(官舎もあります)となっているそうで、昔も今も役人がからんだ場所だったようです。
ちなみに、大塩が乱の最初に大砲(といっても今でいうバズーカ砲のようなもの)を放った場所は、自分の家の向かいぬ住む与力の家だったそうです。(常松さん談)
一方、大森団員は、乱に守口から参加した白井孝右衛門(しらい こううえもん)が住んでいた母屋と書院(ここに平八郎が何度か訪れています)が残っている守口市竜田通1丁目へ。
現場の解説は、守口宿の回でもお世話になった寝屋川市教育委員会市史編纂課の尾崎さんにお願いしました。
書院は残念ながら見ることはできませんでしたが、母屋を見せていただきました。
そのあと、大森・尾崎コンビは門真市堂山町にある茨田公園へ。
ここは、門真から乱に参加した庄屋、茨田郡士(まった ぐんじ)の家があった場所です。
郡士は孝右衛門を通じて平八郎と知り合い、陽明学を勉強していたということです。
この場所には昭和の時代まで、郡士の子孫が住んでいましたが、途絶えてしまったため、門真市が後を継ぎ、ここを公園にしたということでした。
邸宅跡を取り壊す際に、古文書が出て来て、貴重な資料となったそうです。
また、2年ほど前には門真市立歴史資料館で企画展示が行われていました。
一方、林団員は大塩の墓がある成正寺(じょうしょうじ)へ。
乱に参加した人の墓は当時は作られず(尾崎さんによれば「罪人の墓は作られない」とのこと)、後世になって作られたものだそうです。
歴史の教科書で少ししか分からなかった出来事も、スタジオの常松さんと現場の尾崎さんの分かりやすい解説で、大塩の乱が身近に感じられたのではないでしょうか?
ちなみに放送では触れられませんでしたが、寝屋川からも乱に参加しようと大阪へ向かった者がいましたが、着いた時には、もう鎮圧されていたため逃げ帰ったというエピソード(尾崎さん談)などもあったそうです。