8月5日に平和のつどいに守口市中央コミュニティーセンターに行って参りました。
原爆が落とされた当時のパネル展示や原爆の被爆者によるお話。
そして、現代版に作られた水団の試食がありました。
もうすぐ8月15日の終戦の日がやってきます。
いま一度戦争というものを考え、そして当時の日本に思いを馳せたいと思います。
**************亀田しょうこです。
今回、戦争体験を伺ったのは高田 秀雄(たかだ ひでお)さんです。
高田さんは大正11年生まれ。現在94歳です。
戦争に行く前は、国鉄に勤めていて電気関係の整備を担当する仕事をされていました。
その為、特殊技能を持つとして飛行隊に所属され、5ヶ月の訓練を経て外地へ行くことが決定しました。
大阪湾から門司港を経てマニラへ出航。
24隻の船で、まずは台湾の南にある高雄港へ向かいますが敵艦を避けるためにいったん引き返し
夜中2時にまたマニラへ向かうことに。
途中のパシー海峡を通過中、敵の魚雷が船のギリギリをかすめていきました。
味方の船は攻撃を受け沈んでいく中、乗っていた乗員を助けるも全ては助けられず、流されていく者も多数あったそうです。高田さんの乗る船は幸運にも無事でしたが、レイテ島に到着できたのはたった4隻だったそう。
マニラではアメリカ軍のグラマン戦闘機などの空襲を受けました。
船の中で朝食をとったあと、船の外に出てみると空襲があり陸に逃げたそうです。
空襲は1日中続き、数えてみるとマニラ湾に300隻近くの船が沈んでいて、
もし自分も船に乗っていたら船もろとも沈んでいたはず。高田さんの仲間も50〜60人亡くなったそうです。
その後使役に出るよう命令され、遺体の収容作業をされました。数が多すぎて三段に積み上げられたそうです。
その後、仏領インドシナ(今のベトナム)=サイゴン(今のホーチミン)へ出航。
小さな駆逐艦2隻と、簡易的な船1隻の計3隻でむかったそうです。
高田さんが乗った簡易的な船は途中故障してしまい、ボイラーも故障したため到着までの10日間は乗員の水、食事を作ることが出来なかったそうです。
また、動力も失ったため、ロープで前の船に引っ張ってもらったのですが
台風がきて3本あったロープの2本が切れて最後の1本を使ってサイゴンに到着。
到着してから、昭和20年8月15日間近の頃、切り込み隊の練習をされました。
粉にした爆弾を布につめた”ふとん爆弾”をかかえて道路の側溝に隠れ、上陸してきた戦車へと投げて攻撃する練習だったようです。
そして何人かはそのまま突っ込んだが失敗に終わってしまったそうです。
終戦を知ったのは、各部隊が全員飛行場に集まってラジオで玉音放送を聞いたそうです。
聞いた時の感想は「何かよく分からないな」と思ったそうです。
戦争が終わったけれど、日本に帰れるかどうか、殺されるか、その不安があったそうです。
沸印インドシナが引き上げれらたのは1番最後で、最後までどうなるか分からかったとの事。
そして昭和21年5月22日、後に南極へ行った「宗谷丸」に乗って引き上げて広島の港に帰ってきた時、やっと安心できたそうです。
ですが広島は当時原爆の被害で家も何もない状態だったので「復興できるのか?」と不安になったとも。
高田さんは3人兄弟で、長男はシベリア抑留で2年ほど遅れて帰って来られましたが
次男は海軍でレイテ島にて亡くなられたとの事でした。
最後に高田さんに戦争を知らない世代へのメッセージをお願いしました。
戦争のための開発をするなら、宇宙ロケット開発や医療の技術にお金を使ってほしい、力を注いでほしいとおっしゃっていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・お話を聞いて、とてもむごい、大変な戦況のなか、ご無事であった事は本当に奇跡的なことだと思いましたし、体力的・精神的にも正常を保つのは簡単なことではなかったはずと思います。
戦争は今も世界で続いていて、日本も法律が新たになり、周辺の国への警戒も気が休まる日はないですが、
今、世界で何が起きていて、どんな状況におかれているのか冷静に判断しなければいけないと感じます。
その上で戦争を生まない努力を絶対に忘れてはいけないと私は思います。
お話を伺い、次の世代が戦争体験を風化させない努力も永遠に続けなければいけないなと感じました。