FM-HANAKO 82.4MHz 毎月第二・四・五週(金)午後3時35分〜4時50分(「プロムナード824」内)
再放送(土)午後10時〜 ・(日)午後11時〜
守口門真の謎・疑問・情報を探求するもりかど探偵団。
もりかど探偵団の番組とリンクするブログ。
依頼・ネタ募集と共に、皆様からの情報もお待ちしています。

番組では皆さんから情報や依頼をお待ちしています。 情報や依頼はコメントからお寄せください。

2014年08月08日

戦争体験を語り継ごう

今回は、守口市中央会館で開催されている「平和のつどい」の模様をお伝えしました。
守口市中央会館4階では、原爆投下当日の模様が記された新聞や被害に遭われた人たちの写真が展示されていました。
守口市原爆被害者の会の野本幸隆さんのお話しも伺い、原爆の悲惨さを改めて知りました。
野本さんのお話しは非常に詳細に記憶されており、情景を想像すると、心が痛む思いがしました。

亀田聖子です。
戦争体験を語り継ごう

守口市中央公民館で開催されている「平和のつどい」の模様をリポートしてきました。

その語り部として公演された守口市原爆被害者の会 前会長 野本幸隆さんに
大内団長が戦争体験のお話を伺った収録を放送しました。

野本さんは昭和20年、8月6日、広島で原爆に遭いました。
当時は中学生14歳、家族は父・母・兄弟3人で暮らしておられて、
原爆が投下された日は自宅で被害にあったそうです。
(ご自宅は爆心地から2キロ圏内)爆風が起こった瞬間 家具のすべてが倒れたほどの衝撃でしたが
野本さんは家に中にいたおかげで命に別状はなかったのだそうです。

学校も焼け、先生方も亡くなり、広島では生活できないので
原爆投下の3日後におじさんが迎えに来てくれて
父の実家がある四国へ行くことになったそうなのですが
父が怪我をしていて入院していたので長男である野本さんだけは広島に残り
病院で看病をされていたそうです。

何も情報もない状態の中、小学校が病院代わりとなっていて
そこで父の看病をしながら過ごしていたそうなのですが
3・4日経つと、入院している人の背中にうじがわいていたそうです。
また、それだけではなく
隣で寝ていた女の子の手が野中さんに当たったのですが、その手が冷たい事に驚き
その女の子の母親に「この子の手冷たいよ」と言うと
その母親は「この子が最後で、子供が全員亡くなった」と言って泣いておられたそうです。

この話をされていた時、
野本さんは泣くのをこらえながらお話を続けて下さいました。

野本さんは、母が帰って来ないので
友人と探しに出かけたそうなのですが、ぐったりと倒れている方々は会話もままならない状態だったので
野本さんは自分の顔を相手に見せて反応を見て、もし何か反応があればと思いながら
母かどうかを判別しながら探しまわったぞうです。

しかし母は見つからず
市役所へ行って確認しようとすると、たくさんの遺骨がずらりと並んでいて
母の特徴を伝えた上で「もしかしたらこれが?」と思われる
遺骨を持って帰られたのだそうです。

母じゃないかもしれない、他人かもしれないけど
どこかで母を誰かが供養してくれているかもしれないと思い、
その遺骨を供養されているのだそうです。

終戦を迎え時の事もお話して下さいました。
いつまでも学校(病院代わりに校舎が使われていた)に居るわけにもいかないので
列車が動くようになったと知り広島駅まで行かれたとき
駅で何かの放送が流れているのが聞こえ、それは天皇陛下の声だったそうですが
周りが「日本が負けたー!日本が負けたー!」と泣いていたのを見て
日本の敗戦を知ったのだそうです。

その後、野中さんは夜間学校に行って働きながら、小学校に上がったばかりの弟たち兄弟と、
仕事が出来るまでに回復したお父さんと生活されたそうです。

そして昭和32年、就職のため守口へ引っ越してきて
4、5年前に知人の紹介で守口原爆被害者の会に入会されたのだそうです。

つらい当時の実体験を、私達に分かりやすく、細かく、涙をこらえながらお話しして下さった
野中さんのお話は、原爆の恐ろしさや戦争の悲惨さがストレートに心に伝わりました。
戦争・原爆はいけない、なぜいけないか?どんな事が起こったのか?
自分たちの生きる時代の平和を守っていくために知る、自分の意見を持つ
その大切さを改めて教えて頂きました。
posted by もりかど探偵団団員 at 16:11| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月28日

FM−HANAKO開局20周年記念特集@

20年ってながいですよねぇ。
今日はHANAKOの開局当時からラジオをお聴きのゆっきぃさんにお話を伺いました。
なんと、ゆっきぃさんは開局当時の番組タイムテーブルをお持ちでした。
昔からラジオが好きだった、ゆっきぃさん。HANAKO関係の資料の豊富さがすごかったです。
そして、もちろん旧HANAKOにも足を運んだこともあるということです。
これだけ愛されているHANAKOは幸せ者ですね。

**************
かめっちこと亀田しょうこですわーい(嬉しい顔)

FM−HANAKOの開局は平成5年7月20日目
今年、おかげさまで20周年をむかえますexclamationぴかぴか(新しい)

そこで、もりかど探偵団では
FM−HANAKO開局20周年特集をお送りしますわーい(嬉しい顔)

今回はリスナー編と題し
長い期間聞いて下さっているリスナーさんに会いに行きましたわーい(嬉しい顔)るんるん

まずは私が
ラジオネームうっちゃんさんに会いに行きましたわーい(嬉しい顔)

なんと、試験放送から聴いておられて、
試験放送の時点では「どこの放送局だろう?」と思いながら聴き続けておられたとのこと。

FM−HANAKOと知ってからは
「とれたて守口大根」「ジモットSUNDAY」のクイズで
問題となっていた曲(3曲ミックスされた音楽をそれぞれ当てる)を
カセットに録音してクイズに挑戦して下さっていたとかexclamationひらめき

今もそのカセット残ってると思うよ〜とおっしゃっていましたわーい(嬉しい顔)
それと、ハナコの魅力はやはり地元に密着していて、レスポンスがすぐに返ってくること晴れ
と言ってもらえましたexclamation

ありがとうございますぴかぴか(新しい)
長く続いてほしいとおっしゃってもらえました、
これからもどうぞよろしくお願い致しますexclamation

ラジオネームほり助さんにもお話しを伺いましたわーい(嬉しい顔)

ラジオネームにあるように、守口でハンコ屋さんをされていて
ハンコを彫りながらいつも聴いて下さっているそうですわーい(嬉しい顔)

ほり助さんはテレビ番組「TVチャンピオン」にハンコ職人で出演され
その決勝戦、”東京”というお題でハンコを彫ることに。

ハナコにスタジオ出演した際、「決勝戦のハンコはどんなデザインがいいか」を
リスナーさんから募って、その意見を参考にハンコを製作、見事優勝されましたグッド(上向き矢印)

そのハンコがこちら左斜め下ひらめきレプリカ版を押してもらいましたわーい(嬉しい顔)

DSC_0464.JPG

ラジオネームせんべいさんにも会ってきましたexclamationわーい(嬉しい顔)

せんべいさんはハナコの試験放送が流れることを事前に知り合いの方から聞いて
試験放送から聴いて下さっていたそうです目

開局1周年記念にスポンサーだった安康寿司さんで、リスナーさん・スタッフみんなで
集まったそうで、せんべいさんも参加されたそうですわーい(嬉しい顔)
その時の写真を見せてもらえましたぴかぴか(新しい)

また、ハナコの番組「ヤマナのぶっちゃけトーク」で
抽選でファクシミリが当選したそうですexclamation目
す・・すごいわーい(嬉しい顔)
今もお兄さんが使っておられるとか目るんるん


今回出演頂いたリスナーさんだけでなく
たくさんのリスナーさんへ。
放送を聴いて下さってありがとうございます。
これからもどうぞよろしくお願い致しますexclamation×2
posted by もりかど探偵団団員 at 17:26| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年04月26日

第44代内閣総理大臣 幣原喜重郎

総理大臣になるには・・・なんて考えたこともない中庭です。

幣原兄弟の顕彰碑は実は幣原さんの家の跡だったんですねぇ。しかも願得寺は幣原が通ってた小学校があったところだったなんて!!毎日30分強かけて通学してたんですねぇ。
70歳で総理大臣・・・すごいですねぇ。

今回は改めて門真市出身の偉人、幣原喜重郎のことが学べて良かったです。

かめっちこと亀田しょうこですわーい(嬉しい顔)

今日は門真出身の英雄、
ぴかぴか(新しい)幣原喜重郎(しではら きじゅうろう)ぴかぴか(新しい)
がテーマでしたわーい(嬉しい顔)

この人は第44代内閣総理大臣に就任したすご〜〜い人なのです目

私は門真市立歴史資料館にて常松先生に幣原喜重郎について伺ってきましたカラオケ

喜重郎は幣原家の次男として生まれ、
東京帝国大学(今の東京大学)に進学しました。

戦前には外交官・外務大臣として「協調外交」を展開し、
戦後には44代内閣総理大臣に就任しました。

実は内閣総理大臣就任を一度は断っていた喜重郎。高齢の身だったからです。
ですが天皇から再び内閣総理大臣就任を命じられ、44代内閣総理大臣に。

幣原内閣には次の総理大臣になる吉田茂も入閣していました。

「日本国憲法改正草案要綱」を発表するなど、日本の民主化を実現するために努めました。


んな
喜重郎の家族や幣原家の歴史について
改めて門真市立歴史資料館にある常設展
「幣原家」の足跡を訪ねてリポートにわーい(嬉しい顔)
DSC_0401.JPG

喜重郎の父は厳格な教育者だったようですが
「田畑を売り払ってでも教育にはお金をおしまない」

という方針の愛情たっぷりの素晴らしい父でした・・・ひらめき

当時の幣原家を再現した模型や、
喜重郎が実際に使っていたステッキなども展示されていますひらめき

もっと知りたい方はぜひ行ってみて頂きたいでするんるん(
入場無料です)
門真市立歴史資料館 常設展
「幣原家」の足跡を訪ねて

門真市立歴史資料館へのmap↓
http://www.city.kadoma.osaka.jp/kyoiku/shisetsushokai/bunka_shisetsu/rekishi_siryo.html


posted by もりかど探偵団団員 at 18:15| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月25日

地元の堤、文禄堤と茨田堤

今週の中庭は文禄堤の高さにスポットを当ててリポートしてきました。

本町1丁目から八島の交差点へ向けて歩いていったのですが、あの豊臣秀吉が先頭になってこの文禄堤を作っていたなんてロマンを感じます。
さてさて、肝心の堤防の高さなのですが、一番高い所で4メートル位ありました。
実際見上げてみるとけっこう高かったです。

約500年前に作られた物、改めてこうやって見てみて感慨深いものがありました。

     **************

かめっちこと亀田しょうこですわーい(嬉しい顔)

今日は守口・門真にある貴重な史跡についてリポートしましたカラオケ

まずは守口の文禄堤を紹介しましたぴかぴか(新しい)

守口市教育委員会生涯学習課の小川さんに教えて頂きましたぴかぴか(新しい)

文禄堤は、
京阪守口市駅を出て北東に徒歩5分くらいのところに今も残っている堤です目

文禄時代に
豊臣秀吉
の命令をうけ
毛利輝元・小早川隆景・吉川広家の3人の大名が造りました目

伏見城と大阪城までを最短距離でつなぐルートで造られたそうですexclamation
別名、太閤堤とも呼ぶそうですグッド(上向き矢印)

一部、堤が平坦になっている箇所もあるそうですが、
文禄堤は京街道と一体になっていて、淀川を使うかわりにこの京街道を利用して
人やモノの往来があったそうですひらめき

当時の淀川は、梅町・桃町・大阪の太子橋あたりまで川になっていて

現在の守口市役所は中洲だったそうですひらめき

文禄堤ができて低湿地だった河内地方(現在の守口・門真含む)は
農耕がしやすくなって人々の生活に変化をもたらしたそうですわーい(嬉しい顔)

      ******************

門真にも歴史に残る堤がひらめき
茨田堤(まんだのつつみ)ですぴかぴか(新しい)

門真市立歴史資料館の常松先生に教えて頂きましたぴかぴか(新しい)

茨田堤は、古事記日本書記に記録されていて、
日本最古の堤防といわれていますexclamation

宮野町にある堤根神社から見た
伝茨田堤(おそらくこれが現存する堤跡とされる)です左斜め下

DSC_0385.JPG

仁徳天皇の時代(5世紀・古墳時代!)に
淀川の洪水を防ぐ目的で、大国家事業として当時の最新鋭技術で造られたのだそうですひらめき

渡来人(中国人)の土木技術を使い、難工事の堤防を完成させたそうです目

また、この堤を築くにあたり
二人の生贄(いけにえ)が差し出されたという民話があるそうです目

その生贄のひとり、河内の人で茨田蓮衫子(まんだのむらじころもこ)
という人は川に身を投じる際、

「本当に神様がいるなら、このひょうたんを水中に沈められるはずだ!
もしひょうたんが沈まなかったら神様は偽者だから水中には入らない!」

と言ってひょうたんを川に投げたそうです位置情報

ひょうたんは水に浮かびますよね、そうして茨田蓮衫子は難を逃れたのだそうですひらめき

門真市立歴史資料館では現在
企画展 災害の記憶 〜古記録からのメッセージ〜
が開催されていて茨田堤に関する資料も展示されていますわーい(嬉しい顔)
平成25年3月24日(日曜日)までですわーい(嬉しい顔)
門真市立歴史資料館については左斜め下
http://www.city.kadoma.osaka.jp/kyoiku/shisetsushokai/bunka_shisetsu/rekishi_siryo.html
posted by もりかど探偵団団員 at 18:54| 大阪 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年08月10日

戦争体験を語り継ごう

今年も守口・門真在住の方に戦争体験のお話しを伺いました。
今回は守口市・滝井に在住の川西 和代さんにお話しを伺いました。

川西さんのお話を伺っていると、当時の大変さ、辛さが67年前とは思えない位のリアリティがありました。
ラジオでは解りづらかったとは思いますが、お兄さんに3度目の召集令状が来た時のことをお話しになっていた時の川西さんの目から涙が流れたのを忘れることは出来ません。

そして、空襲警報が出て、女学校から自宅まで歩いて帰る時に鉄橋の上を歩いて死ぬような思いをしたこと。
妹さんが女学校の防空壕の中で爆弾の直撃を免れて、守口市から枚方市まで逃げていったというお話し、そして食べ物も芋の蔓がご馳走だったというから驚きました。

これらの体験は実際に起こったことで、風化させてはいかないといけないということで、このような戦争体験をお伝えしているんですが、今回も大変考えさせられました。 


    *************
かめっちこと亀田しょうこです手(パー)

8月15日は終戦の日です。
今日は、大枝公園にある慰霊碑の前からあいさつを
させてもらいました。
DSC_0244.JPG

今日の探偵団では戦争体験者の

川西 和代さん(守口市滝井在住の方です)

に中庭さんが当時のお話しをお伺いした模様を
お届けしましたexclamation


今日のブログでは
川西さんにお伺いした内容の一部を記させてもらいます。



川西さんが滝井小学校2年生か3年生の頃、
兵隊さんへの慰問文を書きましょう、
という授業があったそうです。

川西さんはまだ子供だったので
戦争の意味が理解しきれず
簡単には書くことができなかったそうです。

ご苦労されている兵隊さんに
なぐさめの言葉を・・・と先生に言われたそうです。

また、
川西さんのお兄さんは、召集を3回受けたそうです。
1回目の時は守居神社で壮行式があったのだそうです。

当時、守居神社でそんなことが行われていたんですね。
私は初めて知りました。

お兄さんは20代半ばで戦死され、
3回目の召集の時は
近所の人には言わず、ひっそりと行かれたんだそうです。

お兄さんも、川西さんも
複雑な気持ちでいらっしゃったのが伝わってきました。
本当につらい体験をされたのが分かりました。



川西さんは、
昼働いて、夜間は女学校に行かれていたそうです。
空襲におびえながら通学されていたそうです。

夜の授業では、
外に明かりがもれないようにされていたそうです。

また、空襲があったらすぐに帰宅で、
電車の線路を目印に
月明かりの中で学校のある南森町から滝井まで
歩いて帰ったそうです。

学校に行っている間も安心できない状況なのですね。
帰り道も大変な思いをされたのが分かります。


当時の食事は
いものつるがごちそうだったのだそうです。
また、配給された玄米を一升瓶に入れ、棒で突いて
それをおかゆにして食べたそうです。

配給の玄米は成人1人に、1日あたり2合と少し
があったそうですが、
おかずがないのでそれだけでは
足りなかったとおっしゃっていました。


さらに
こんなお話しも下さいました。

現在の京阪滝井駅の南側にあたる場所に
爆弾が投下され、大きな穴があいたそうです。

川西さんの妹さんは
守口で防空壕に逃げた時、
ここにいては危険だ、と考え
防空壕を抜け出して枚方まで逃げたのだそうです。

妹さんが防空壕を去ったあと、
守口は火の海になっていて
それを見た川西さんは
妹は亡くなった・・・と思っていたそうです。
けれど、妹さんは泥だらけの顔に裸足で
帰って来られたのだそうです。


そのお話しを受けて
私は 京阪滝井駅までいってみました目
周囲を見て、爆弾の跡と思われるものは
現在はありませんでした。

川西さんが18歳の時、
終戦を迎えたそうです。

私は
戦争を体験した方のこういったお話しを
初めて聞き、
本当に驚くこと、悲しくなること
がたくさんたくさんでした。

本当につらい体験であったと思うのに、それを話して下さった
川西さん、本当にありがとうございました。
posted by もりかど探偵団団員 at 18:39| 大阪 ☀| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月12日

戦争体験を語り継ごう 学徒出陣と特攻隊

カンちゃんこと上林美香ですかわいい

今回は事前に守口市にお住まいの岡田日出夫さん(大正12年生まれ)にインタビュー。
学徒出陣と特攻隊についてお話して頂きました。
岡田さんは松山高商(現在の松山大学)在学中の19歳のときに軍隊に入りました。
入隊後は飛行機の整備をされていたそうです。
知覧(鹿児島県の特攻基地)で特攻機の整備をされていたこともあります。
飛び立つ特攻機を数多く見送られたのでした。
当時の辛い経験や戦友のことを思い出すと、時折声を詰まらせて涙された岡田さん・・・
一つ一つ思い出しながら、語ってくださいました。

岡田さんは少しでも長く平和なときが続くように、
少しでも争わなくていいように人は努力をしなくてはいけない。
そうおっしゃっていました。

本当に今回も貴重なお話をして頂けました。
岡田さん、ありがとうございました。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜


岡田日出夫さんが書かれた「特攻隊員の友に送る手紙」を朗読させてもらい思ったこと。
自分に親切にしてくれた仲間の「特攻機の整備」をしなければいけなかった気持ち。
想像を絶し、言葉になりません。

戦争は繰り返したくない。
繰り返して欲しくない。
という気持ちがあると同時に、終戦直後の何も無いところから、ここまで復興させてくれた僕たちの先輩に感謝します。

この気持ちを忘れずにこれからも生活していこうと思う中庭でした。
posted by もりかど探偵団団員 at 17:10| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年08月20日

戦争体験を語り継ごう シベリア抑留の体験談A

うだるような暑さにまいりまくっている中庭です。
今日は菊水老人福祉センターに行って戦争体験のお話しを聞いてきました。
色んな方に沢山のお話しを聞けました。
実際に空襲を体験してた人、ご兄弟を戦争で亡くした人、戦闘機に機銃掃射された人、工場で武器を作っていた人・・・。
逆に空襲に遭わなかった人、終戦の日は戦争が終わった事がいまいち分からなかった人・・・。
65年前のそれぞれの戦争体験、それぞれの終戦の日があったんだと改めて感じました。
一つ言えることは戦時中のお話をされている時の皆さんの顔は皆悲しそうだということです。
これからも戦争の無い平和な世の中であることを願います。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜


カンちゃんこと上林美香です。
先週に引き続き、シベリア抑留を体験された堤正晴さんへのインタビューが放送されました。
今回はシベリアで色々な曲を作られたお話が中心になっていたのですが・・・
数ある曲のなかでも「シベリア夜曲」について詳しくお聞きしました。
堤さんご自身と音楽のこと、シベリア夜曲ができたきっかけ・・・
そして、シベリア夜曲が戦後も歌い継がれていたことを知った時の心境や、
それがきっかけで戦友と再会することができたお話をしていただきました。
インタビューの最後には戦争を知らない世代へのメッセージと共に命の大切さを語ってくださいました。
堤さん、ありがとうございました。

そして、今日は中庭さんと一緒に菊水老人福祉センターで皆さんに戦争に関する体験談をインタビュー。
ご主人がフィリピンで戦死したという女性。
ご兄弟が15歳で戦場へ行って戦死したという女性。
幼い頃に頭巾をかぶって空襲の中を逃げ回ったという男性。
皆さん、当時のことを思い出しながらお話してくださいました。
ありがとうございました。

〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜 ・ 〜

posted by もりかど探偵団団員 at 17:33| 大阪 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月12日

目指せ!門真の歴史博士!

どうも中庭です。

今回は門真市の歴史を調査してきたのですが、門真と言えばレンコン

レンコンと言えば門真ということで、今回は門真のレンコンに詳しい

中西農園の中西さんにお話しを伺いましたわーい(嬉しい顔)

昔、レンコンを作るのは池で栽培していて、手入れが大変なので田ん

ぼで栽培するようになったなんて「へぇ〜」でした(古っ!)

中西さんが言うには「門真にはもっともっと歴史がありますよ」と

言ってましたわーい(嬉しい顔)

門真歴史検定を通して色んな人に門真の事をしってもらえれば嬉しい

ともおっしゃっていましたわーい(嬉しい顔)

カンちゃんこと上林美香ですかわいい
今日は「茨田公園」からスタートるんるん
そして、公園で見つけたのは「茨田邸跡」の記念碑でした。
記念碑の近くには詳しい説明もあったのですが・・・
TS3D0092.JPG

もっと門真の歴史について勉強するためにexclamation
門真市立歴史資料館へ移動しました〜exclamation×2
歴史資料館では常松先生に茨田邸跡の記念碑のこと、
そして門真の歴史で登場する様々な人物について教えていただきましたわーい(嬉しい顔)
私は門真で育ったので、小学校の頃に“門真の歴史”は勉強したはずなんですが・・・
結構忘れているもんですねぇ〜あせあせ(飛び散る汗)
今日、改めて覚えなおす事ができましたッ手(チョキ)
・・・歴女への道はなかなか遠い・・・(笑)
posted by もりかど探偵団団員 at 17:35| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月11日

守口・門真の殿様って?

江戸時代の守口・門真を支配していたお殿様はどこのどんな人だったのか?
ということを中心に調べました。
スタジオ解説に探偵団「準レギュラー」、江戸時代の研究が専門「ちょんまげ大好き」という、門真市立歴史資料館の常松さんにお願いしました。

中庭団員は、門真市殿島町へ。
守口・門真で「殿」が付く唯一の町ということで何か関係があるかと思われましたが、特に何も無かったようです・・・。

一方、上林団員は佐太天神へ。
実は、この付近に殿様にまつわるものが複数あるというのです。

そして、守口・門真を治めていた殿様が、常松さんから明かされました。
守口・門真の殿様は代々「永井氏」(大槻団長は「永井さん」と呼んでいましたが)が支配していたのです。
永井氏は、関ヶ原の合戦より前から徳川の家臣だった家で、家康の命により、苗字を変えたというくらい徳川に忠誠を尽くした家だったのです。
江戸時代の最初にいたのは、淀城(現在の京都市伏見区・京阪電車の駅もあります)。
つまり、江戸時代の守口・門真は淀の領地だったのです。
譜代大名だった永井氏は、京都と大阪の間にあるこの地域の支配を任されたのでした。
その永井氏のうち淀藩の初代藩主だった永井尚政の業績を記した石碑が、佐太天神横の菅相寺にあります。
江戸時代は、この碑の整備に予算をかけていたということもあり、400年近く経た今も残っています。

その後永井氏は、淀から全国各地へ移り(今で言う定期人事異動のようなもの)、最後は岐阜に落ち着きますが、その間も守口・門真は永井氏の領地だったのです。

そんな殿様の生活はどうだったのでしょうか?
テレビでのイメージから「派手な生活」ということを想像される方も多いと思いますが、実際は領地の開発や財政を見たり、「参勤交代」で江戸と1年おきに行ったり来たりしたりと何かと忙しく、そんな贅沢な暮らしもできなかったそうです。

さて、全国各地に移った永井氏、お城が遠くにあると年貢とか大変。(今で言えば住民票を岐阜まで取りに行くようなもの)
そこで、佐太にはその「出張所」というべき陣屋がありました。
来迎寺の隣にその跡地があり、石垣が残っています。
この陣屋で働く人は現地採用で、農民も陣屋で働く時だけは武士になれたそうで、守口市金田町の墓地にも「佐太陣屋」という文字があったそうで、この仕事が他人に誇れる仕事だったことが分かります。

中庭団員は、門真市宮野町の堤根神社へ。
この神社は、佐太天神と同じく菅原道真を祀っていますが、そうしたのが、さっき出てきた永井尚政だったのです。

歴史はどちらかというと苦手という団メンバーでしたが、常松さんの分かりやすい解説で、地元の殿様に関心を持ってもらえたようです。
近々、この永井氏に関する歴史講座を開催する計画もあるそうなので、その時は聞かれてみてはいかがでしょうか?
posted by もりかど探偵団団員 at 15:40| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月08日

守口・門真の殿様って?

団長・大槻なおみです

江戸時代、守口・門真を治めていたのは、淀のお殿様だった!
今週は歴史にうとい私も、常松さんのおかげで良く勉強できました。
この淀のお殿様(「永井さん」)、最終的には岐阜へ行かれたとのこと。
そこでふと思い出しました。
守口大根の事。
昔、守口で作っていて、それが今、岐阜で名産(守口漬け)になっている。
岐阜まで守口大根を持っていって広めたのは、この「永井さん」では!?
守口と岐阜のつながりにも興味が出てきましたねえ。

カンちゃんこと上林美香ですかわいい
歴史に詳しい女性“歴女”を目指してハリキッテ調査に出たんですが・・・
スタジオで解説してくださっていた常松さんにまだまだと言われてしましたもうやだ〜(悲しい顔)
でも、今日の探偵団で守口・門真の殿様についてはバッチリ覚えましたよ〜exclamation×2
最初に行ったのは“菅相寺”るんるん
ここでは守口・門真の領主・永井家について知る事ができる碑がありました〜exclamation
TS3D0069.JPG

そして、次に行ったのは“佐太陣屋跡”exclamation
1687年に設置された佐太陣屋は摂津・河内の年貢を徴収したりする場所だったそうです。
TS3D0073.JPG

どちらにも解説の札があるので、是非行ってみてくださいねるんるん
地元の歴史について勉強するのって面白いですexclamation×2わーい(嬉しい顔)


今日のボクは殿島町と堤根神社に行ってきましたわーい(嬉しい顔)

殿島町は・・・特に殿様とは関係ありませんあせあせ(飛び散る汗)

「殿」がついているから行ってきましたわーい(嬉しい顔)あせあせ(飛び散る汗)

堤根神社にも行ってきたのですが・・・少しは守口・門真の歴史、皆

さんに分かってもらえたでしょうかあせあせ(飛び散る汗)

交通手段が今とは比べられないくらい発達していない昔は、殿様や家

来達は大変だったのですねぇふらふら

しかし、殿様が小走りで移動していたというのには笑いましたわーい(嬉しい顔)

そういう意味で言うと、交通の便が悪かった昔の国を治めていた殿様

はすごいなぁと思った中庭でした目
posted by もりかど探偵団団員 at 17:34| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月08日

守口宿検定開催、守口宿を学ぼう

試験に弱い団長の大内です。
ご当地検定って今、全国にありますが
今度新たに登場するのが「第一回守口宿検定」
今日は目からウロコの話もたくさん。
まさか、江戸時代の喫茶店?茶屋は「サテン」と読んだとか。
知れば知るほど面白い!守口宿検定は11月30日です。
是非あなたもチャレンジ!!
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毎度にろんでおます犬
今日われわれリポーター2人は、実際に守口宿を上の見付から
スタートしまして、下の見付まで・・・
そして、準レギュラー 寝屋川市教育委員会の尾崎課長の解説あり
でのブラリポでした!!
これはぜひ皆さん時間がある時回ってください!
今まで知らなかった事や、新しい発見があるかもしれませんよ!!
ボクのオススメは・・・宿場時代の建物で、宿場当時と同じ提灯屋
のかさと丁ちんですexclamation×2
ここのご主人が気さくな方なので、お店のぞきに行って
お話しするだけでもおもしろいかもしれませんよexclamation×2


カンちゃんですかわいい
「東海道57次 守口宿内図」を見ながら、
上の見付→下の見付まで歩きましたぴかぴか(新しい)
スタジオでの話を聞いたり、尾崎さんの解説つきなので分かりやすいるんるん
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一里塚跡や盛泉寺など解説つきの場所もたくさんありましたよわーい(嬉しい顔)
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日常見ている風景も歴史を照らし合わせて考えると
またいつもと違って見えて面白いですね〜exclamation×2
検定の日まで、まだ時間があるので皆さん勉強して挑戦して下さいね〜exclamation×2
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秘書りんですモータースポーツ
「検定」と聞けばどうしても身構えてしまう私・・・ふらふら
私をご存知の方は「うっそだぁ〜」って思われるかもしれませんが、
こう見えてけっこう小心者な部分もあるんですドコモ提供
検定とかかしこまったものでは緊張してしまうのですたらーっ(汗)
そんな私でも大丈夫exclamation&question守口宿検定
「守口宿」というだけではやっぱり身構えてしまいますが、
なんと、検定試験の直前に講義があるのですひらめき
(数日前とかではなく、ほんとに直前の直前、検定開始の1時間半前目
何と親切なんでしょう・・・もうやだ〜(悲しい顔)
しかも、講義が終わって検定までの30分間はティータイムがあるのです喫茶店なんともほっこり〜いい気分(温泉)

そして今日の番組で一番印象に残ったことは、
街道がカクカクっと曲がっているのは、そこを通る大名行列が鉢合わせしないためでもあるということexclamation×2exclamation×2
それが理由の全てではないですが、そんな理由もあるってことにびっくりしました目
いつも歩いたりくつ自転車や車で通っている道ですが、
そこでそのようなことがあったということを想像すると、
なんか不思議でおもしろいと思いませんかexclamation&question

歴史って、教科書に載っていることだけではなかなか面白みが感じられない
という方は多いかもしれませんが、
その裏に潜んでいる小話なんかを引き出していくと
とっても面白いと思いますよ〜わーい(嬉しい顔)
posted by もりかど探偵団団員 at 15:25| 大阪 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月09日

戦争体験を語り継ごう 終戦時大人だった人の体験談その2

団長の大内康弘です。
今日は野沢正さん艶さんご夫妻と、三谷末義さんに
お話しをお伺いしましたが、はっきり言って驚く話の連続でした。
20歳前後の時に、今の日本とは全く違う世界を見ていた。
終戦時、何がどうなったのか多くの方が分からなかった。
楽しいお話しでは決してない思い出の数々。
お話し頂いたことに心から感謝致します。

今日は長崎に原爆が投下されて63年目。
人類が最後に原子爆弾を戦争に使った日。
これから永久に使われませんように。
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まいどにろんでおます犬
戦争を実際に体験された方が少なくなってきている中、
その体験された方の貴重なお話しを聞いて語りついでいかないと、
また人間は同じ過ちを繰り返しかねません。
しっかりと戦争中のお話しに耳を傾け、僕達が次の世代にどう伝えて
いかないといけないか・・・
それが僕達の使命だと思いますね。

カンちゃんです。
京阪・守口市駅前と大枝公園に行っていました。
大枝公園では終戦当時は山梨県にいた女性と
終戦当時、愛媛県にいた女性にお話しを伺いました。
戦時中に身近な方々が亡くなったことや
B29が関東方面へ向かって飛んでいくのを見たことを
お話ししてくださいました。
戦争を知らない世代には
「平和の大切さ」を知ってほしいとおっしゃっていました。
過去あったことから目を逸らさず、ちゃんと知る。
そして、平和を願う心を忘れないようにしたいですね。

秘書りんスペード

8月9日、今日は長崎に原子爆弾が投下された日。
私の母は九州は佐賀県の出身。お盆になると毎年家族全員で里帰り旅行をしていました。
いくつだったか忘れましたが、その期間を利用して、佐賀から長崎へ行ったことがあります。
そして、長崎市の平和公園や原爆資料館、大浦天主堂などを回りました。
でも、それまでも学校やテレビで戦争の恐ろしい映像を見てきてからなのか、
「長崎に行く」と両親に言われただけですごく嫌でした。
怖くて怖くて仕方がなかったのです。
でも、反発するだけの勇気もなく、一緒に行って写真や資料を見てきました。
小学生の私には特に写真が強烈でした・・・
夜、戦争に関する写真や映画などを思い出して寝られないということもありました。
その頃は、夏休みは楽しみであったけど、半面、イヤでもありました。
ですが、そういうものを幼いときに見たからこそ、こんなことが自分に起こったら・・・
そんなことはあってはいけない。世界のどこであっても起こってはいけないという想いを持っているんだと思います。
だから、最近では、戦争に関することを一人一人がもっと知っていかなければいけないと強く思います。
せめて、この夏の時期だけは、戦争や世界の平和について考える時間を持つべきだと思います。

今日は、スタジオに3名の方をお迎えして皆さんの戦争体験をお聞きしましたが、
「戦争」という言葉も聞きたくないとおっしゃっていた方にまで色々とお聞きすることができました。
私たちはそんな絶対思い出したくないような戦争時のことを
たくさん聞いたことに責任を持たなければいけません。
そう、私たちは「語り継いで」いかなければいけないのです。
実際に経験をしていない私たちがどこまで出来るかといわれれば、
「戦争は絶対してはいけない」というぐらいしかできないかもしれません。
でも、世界中の一人でも多くの人が訴え続けていけば
一歩でも平和な世界に近づけるのではないでしょうか。

みなさんの回りにももし戦争を体験された方がいらっしゃるのであれば、
当時の様子を聞いてみてください。
あなたがインタビュアーです。
きっと何か得られるものがあるでしょう。
posted by もりかど探偵団団員 at 15:39| 大阪 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月31日

守口門真にあった城の事を知ろう

一国一城の主になりたい団長の大内康弘です。
う〜ん
守口のお城と武将大内義弘の関係、すっごく興味深く、
でもそれで殺されてしまった事実には、自分の事のように
悲しかったですねもうやだ〜(悲しい顔)
(朝鮮貿易で儲けていた話には何故だかスンマセンって
思いましたあせあせ(飛び散る汗)
ちなみに漢字は違いますが、父はヨシハルです。


毎度たにろんでおます犬
今日は守口市の難宗寺と土居商店街の中にある守居神社へ寝屋川市
教育委員会の尾崎課長の解説ありながら回らせて頂きましたexclamation×2
何故・・・難宗寺と守居神社???
この近くに守口城があったとゆう説があるからですパンチ
お城と言っても、大阪城や姫路城みたいなあぁゆうお城ではなく、
戦をする為の実践的なお城・・・高台に立てただけのお城
砦みたいなお城だったそうなので、形跡らしいものは見受けられ
ませんでした。
尾崎さんとのペアで楽しくリポートさせて頂きましたexclamation×2
ありがとうございましたexclamation×2


りんちゃん代理カンちゃんことリンカーンぴかぴか(新しい)です(笑)
守口門真にお城があったんですね〜exclamation&question
私はキッラキラぴかぴか(新しい)の大きな城を想像していたのであせあせ(飛び散る汗)
ちょっと違いましたが・・・たらーっ(汗)
門真市の城については、門真市立歴史資料館の常松隆嗣さんに色々教えていただきましたexclamation
門真には「古橋城」がありましたexclamation
今は願徳寺がある場所だそうですよ。
他にも幾つかあったようなのですが・・・はっきりした場所は分からないそうです。
身近なところにも城があったexclamation×2
地元の歴史を学ぶのって面白いですねわーい(嬉しい顔)
posted by もりかど探偵団団員 at 15:38| 大阪 ☔| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年03月22日

もりかどの歴史を歩いて散策 -門真編-

団長スパイシーです

いやぁ〜今日は絶好のお出かけ日和晴れ
こんな日はゆっくり歩くのがGOOD!メタボ解消にもなるしねっダッシュ(走り出すさま)
ってな訳で、今日は門真の歴史散策スポットをご紹介しました。
お久し振りにご登場いただきました門真市歴史資料館の常松先生、今回もラーメンの話題じゃなくてごめんなさいたらーっ(汗)

歴史資料館では「歴史散策ガイドマップ」が発行されていて、今回はこちらを基に探偵の二人に実際に散策してもらいました。

今度の休みは偉人たちの功績を称えるものから、街道や集落の名残をのこすもの、長い間門真の街を見守り続けた巨木まで、様々な歴史スポットと共に門真の街を散策してみてはいかがですか?

さてさて次回はなんと、私スパイシー八木最後の団長としてのオツトメです。もうやだ〜(悲しい顔)
長いようで短かった2年と3ヶ月・・・その締めくくりはいかなるものになるのか!?
乞うご期待です。

毎度にろんでおます犬
たにろん今日は門真市の一番町の幣原兄弟顕彰碑からスタートしましたが!!
幣原 たいら先生、幣原 たいら先生が読めなかった・・・たらーっ(汗)
申し訳ありませんでしたバッド(下向き矢印)
まぁ電波の関係もありましたからねあせあせ(飛び散る汗)たらーっ(汗)
そこからのんびり古川沿いを進み、北島町の北島環濠集落へとやって行き昔の生活を今も感じられる勝手口裏に流れる水路をリポート!
最後は三ツ島神社の薫蓋樟まで散策いたしましたムード
暖かな春の日差しを浴びながらの散策・・・
忙しい日常を忘れて、そして花粉の飛散も忘れて町並みを見ながら歩くのはいかがですか??
歴史の勉強にもなりますしねexclamation×2


カンちゃんですかわいい
今日は大阪中央環状線沿い(門真市稗島)にある「喜左衛門の碑」からスタートしましたexclamation
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次に向かったのは、堤根神社入口の左側にある「道標」。
ここには住道までの道案内が書かれている石があるんですが・・・
今では字がほとんど読めなくなっちゃってますあせあせ(飛び散る汗)
でもそれだけ昔からあるものなんですね。
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そして、次に向かったのは「稗島のくす」。
大阪府指定天然記念物になっているこの樹のところで、門真の歴史散策マップを持った親子とすれ違いましたexclamation×2
お休みに親子で地元の歴史散策・・・ステキですねぴかぴか(新しい)
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その感動を胸に「一休生母の墓」に向かったのですが・・・
残念ながら今は道路工事中で迂回路になっているため見つけることができませんでしたもうやだ〜(悲しい顔)
気を取り直して、最後は薫蓋樟へ。
国指定天然記念物の木陰でゆっくり休憩もできましたるんるん
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春休みの天気のイイ休日exclamation×2
皆さんもゆっくり地元歴史散策してみませんかexclamation&question


秘書りんですリボン
今日は3月22日・・・おっと、林容子生誕記念日3ヶ月前ではないですかっexclamation&question
3月ももうこんな時期かぁ、早いなぁ・・・と思っていたら・・・どんっ(衝撃)
ま、そんなことはおいといて・・・・

ここ数日一気に暖かくなって着るものに困っている今日このごろなんですが、こんないいお天気の日にはお出かけしたくなりませんかexclamation&question
今日は歴史散策・門真篇
門真の歴史散策KA・DO・MA・Pウォーキングマップを参考に散策ルートを作成し、各ポイントをたにろんとカンちゃんにリポートしてもらいました。
今回は門真篇といっても全て南部のポイントです。
北部にもたくさん散策ポイントはあるんですよ〜ぜひ、いずれはこちらもご紹介していきたいと思います。
もちろん、守口市の歴史散策コースも今後ご紹介していきたいな〜と思っていますパンチ
ぜひ参考にして、街中散策をして歴史を感じてみてくださいドコモポイント
浪漫ですよ、ロ・マ・ン飛行機


posted by もりかど探偵団団員 at 16:08| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年04月16日

もりかど「歴史の街道」シリーズ 放出街道 守口から高野山へ続く道

守口・門真を通っている街道を調べるシリーズ。
初回の今回は「放出街道」です。

放出街道は、守口と杭全(くまた)神社(大阪市平野区)を結ぶ街道で、その先は「中高野街道」とつながり、高野山まで行く道の一部となっています。

今回、谷本団員は放出街道を「文明の利器」自転車を使って、上林団員は、歴史ものの解説ですっかりおなじみの、寝屋川市教育委員会市史編纂課の尾崎課長と一緒に守口市内の放出街道を歩いていきます。

上林・尾崎ペアが最初に寄ったのが、守口市大枝北町にあるこの石碑。
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この石碑は大正年間に作られたもので、当時からここに道があったことを示しているという尾崎さんの解説がありました。

その後、2人は街道を進み、高瀬神社近くへ。
このあたりは荘園だったということで、荘園つながりから高野山と荘園に関するお話を聞けました。
(門真の岸和田あたりも荘園だったそうです)
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さて、自転車で疾走する谷本団員は守口市を抜けて鶴見区へ。
その途中にあった正因寺で「中高野街道」の石碑を発見。
このあたりは、街道の面影が残るような街並みになっていました。

上林団員たちは、守口市馬場町にある護念寺へ。
ここにも、半分埋もれた形の石碑がありました。
(残念ながら何と書いてあるかは分かりませんでしたが)
お天気も良く、ちょうどいいウォーキング日和でした。
1時間半かけて、旭区清水まで歩きましたが、高野山までは・・・。
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谷本団員は街道の名前にもなっているJR放出駅前に到達。
自転車でも1時間半で放出までなので高野山までは・・・。

高野山へは「中高野街道」の名前から分かるように、他に「東高野」「西高野」街道があります。
複数のルートが存在する高野山のステータスについても尾崎さんに解説していただきました。
しかし、弘法大師は「死んでいないこと」になっているとは・・・。

これからも機会があれば、守口・門真を通る街道をたどり、歴史のお勉強をしたいと思います。

今後の「歴史の街道」シリーズをお楽しみに。
posted by もりかど探偵団団員 at 19:15| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月18日

一休さんを知ろう

その昔、アニメで見た一休さん。
今回は、とんちでおなじみの一休さんについて調べました。

門真市三ツ島に一休さんのお母さん(母上さま)のお墓があるといわれている場所があり、このことについては以前に取り上げたことがありますが、今回はおさらいも兼ねて、三ツ島出身のFPの岡本さんにお話を聞きました。
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現在は、下三ツ島公園の中にありますが、ここはもともと川で、その川の中州になってるところにあったそうです。
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このあたりは、楠家の領地だったところで、母上さまは楠家の出身で一度朝廷に嫁ぎましたが、南北朝時代のさまざまな要素があって、実家のあったこのあたりへ逃げたと言われています。

さて、本題の一休さん。
その実像はどうだったのかについては、探偵団の歴史ものでは何度もお世話になっている寝屋川市教育委員会の尾崎さんに解説をお願いしました。
(尾崎さんは、この時代あたりの研究が得意分野です。この日は子供さんの運動会終わりに駆けつけて下さいました)
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一休さんは、禅宗の僧侶で、小さいころから修行をして「一休」という呼び名を譲り受けたそうです。
どちらかというとリベラルな考えをもつお坊さんだったようです。
様々なお寺で修行をして、最後は現在の京都府京田辺市にある酬恩庵(別名「一休寺」)に移って88歳という長寿をまっとうしたそうです。
一休さんのお墓は一休寺にあって、天皇の子供だったということで、宮内庁が管理しています。
一休さんが「とんち」で知られるようになった理由は、僧侶同士の問答(いわゆる「禅問答」)のために、頭の回転の早い気のきいた答えを用意しなければならず、それで鍛えられたのではないかと言われています。
ちなみに有名な「このはしわたるべからず」の話は一休寺のHPにも記載されています。

さて、アニメの一休さんと史実との比較も聞きましたが、いろんな事を教えて下さいました。
まず、「一休」という名前は大人にってから名乗った名前なので、子供のときに「一休さん」と言われることは考えられない。(当時は「しゅうけん」という名前だったそうです)
史実では、そのころの将軍は足利義持で、アニメの足利義満ではない。
アニメの登場人物のうち実在していたのは新右衛門さんと和尚さま。
特に新右衛門さんは、将軍と直接話ができる立場だったので、相当高い地位の武士だったようです。
さらに現実では、一介の小坊主にすぎない一休さんが将軍と直接話をするというのはありえないことだそうです。
(う〜ん 子供の夢を壊してしまったかな?)

また、最近は一休さんを知らないという子供さんもいるようで、またテレビで再放送されることを期待したいと思いました。
posted by もりかど探偵団団員 at 18:09| 大阪 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月14日

戦争体験を語り継ごう 疎開の体験

毎年8月上旬に取り上げている戦争体験を伝えていく企画。
今回は疎開を体験された方のお話を聞きました。

まずは、門真市老人クラブ連合会の岡村会長のところへ。
岡村さんは当時から門真に住んでおられましたが、門真では集団疎開は無く、岡村さんのお宅では大阪市から被災した子供さんを受け入れられたそうです。
岡村さんのお宅では新しい家族が来たということで、一緒に遊んだり、農家のお手伝いをしたそうです。
終戦後その子供たちは帰っていったそうですが、その後も手紙や実際に会うなど親交はあったそうです。
門真からも大阪市が空襲にあったときの火が見えたそうです。

続いては集団疎開を体験した方たちのお話。
当時守口市は、守口町・三郷町・庭窪村に分かれていて、守口町に守口・滝井、三郷町に三郷、庭窪村に庭窪の小学校(当時は国民学校)がありました。

まずは、滝井小学校から集団疎開した経験をお持ちの誉田さんと山本さんにお話をうかがいました。
疎開をしたのは昭和20年の春で、大阪市の空襲が激化する中、隣接する守口も危ないということで実施され、3−6年生が石川県へ集団疎開しました。
疎開先のお寺に分宿しての生活でしたが、学年ごとではなく地域ごとに分けられたので、兄弟姉妹が同じ場所で生活していたそうです。(普通は学年ごとに分けられたそうです)
終戦後守口に戻りましたが、皆さんにとって石川県が第二の故郷になり、平成7年(1995年)に里帰りツアーを実施し、疎開先だった石川のみなさんも暖かく迎えて下さったそうです。(個人的に行かれた方は以前にもいたそうです)
また、その時に記念の文集を制作したそうで、今でも疎開先との交流が続いています。

続いて、守口小学校から疎開した竹内さん、小野寺さん、冠中(かんなか)さんにお話を伺いました。
疎開先は滝井小学校と同じ石川県。
疎開は行く方も寂しい思いをしますが、送り出す方も同じ思いで、冠中さんのお母さんは娘を疎開にやったことを後悔して涙していたそうです。
守口小学校の疎開先でも地区ごとに分かれていたそうで「分団」と呼んでいたそうです。
この時代はどこもそうですが、とにかく食べ物が無い時代でしたが「お腹がすいた」とは言えない状況だったそうです。
また、滝井小学校と同様に戦後50年に里帰りツアーをしたそうですが、向こうでも守口の子供たちを受け入れたことが語り継がれていて、当時疎開から戻ったときに身寄りがいなければ自分達で引き取ろうと割り当てまで決めていたというエピソードを紹介して下さいました。

門真市にお住まいの大井さんは、大阪市の小学校から奈良県の吉野へ疎開されたときのお話をしていただきました。
大井さんは昭和19年に疎開をして、旅館で寝泊りしたそうで、大井さん自身は後に家が京都府内にできたのでそちらに移ったそうですが、疎開していた別の子供さんの中には空襲で自分以外の家族を亡くしてしまった人もいたそうです。
大井さんは戦争映画で兵士が倒れるシーンがあると、その兵士の家族の事を思ってしまうので、戦争映画はあまり見ないそうです。

みなさん子供のときの戦争体験をお話いただきましたが、いろいろな交流や経験があったにせよ、「戦争はいけない」ということを後世に伝えたいとお話していました。
posted by もりかど探偵団団員 at 19:28| 大阪 ☀| Comment(5) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月19日

いま話題の文豪 司馬遼太郎

現在、NHK大河ドラマで放送中の「功名が辻」
その原作者であり、さまざまな名作を残した文豪・司馬遼太郎について取材しました。
なぜ、司馬遼太郎なのか?
実は、かつて司馬遼太郎は守口に住んでいたことがあるのです。
そういったつながりで今回取り上げました。

大森団員は、東大阪市にある「司馬遼太郎記念館」へ。
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住宅街の中にあるというこの記念館。
それもそのはずで、ここに遼太郎氏が住んでいたそうです。
(「ヤマナのぶっちゃけトーク」のやまなひとふみさんも、以前に見かけたことがあるそうで、「サインもらっとけば良かった」と言ってました。)
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館長の上村洋行(ようこう)さんにお話をうかがいました。
記念館は、遼太郎氏の没後、氏の功績を記念して「司馬遼太郎記念財団」を設立し、建築家の安藤忠雄氏が設計して造られた建物です。
館の敷地には大きな森(別にこれを狙って大森団員を派遣したわけではないのですが・・・)、遼太郎氏の書斎などがあり、館の中には地下1階から2階までが吹き抜けの構造になっている大書架をはじめ、遼太郎氏直筆の原稿や企画展が行われているスペースなどがあります。
大書架には遼太郎氏の作品や蔵書がおよそ2万点置かれており、そのスケールの大きさに圧倒されます。
この記念館は、「見る」というより「感じる」「考える」ことをしてもらうことを基本に置いているそうです。(先述の「大書架」の書籍は閲覧不可となっています)。
また、館では現在遼太郎氏の代表作のひとつである「竜馬が行く」の企画展を実施していますが、館の天井にあるコンクリートが竜馬の表情を浮かびあがらせているというオカルトのようなエピソードを紹介して下さいました。
ちなみに、「狙ってやったものではない」そうで、来館者が偶然発見したというものでした。
生前の遼太郎氏は、誰にでも優しく接して、原稿の締切は守っていたという方だったそうです。
残念ながら、館内の撮影はできなかったのですが、遠くない場所にある記念館に行かれて遼太郎の世界を味わってみて下さい。
司馬遼太郎記念館では、遼太郎に関する研究や企画に対して奨励金を出す「司馬遼太郎フェローシップ」や友の会の会員を募集しています。
詳しくは司馬遼太郎記念館のHPをご覧下さい。
http://www.shibazaidan.or.jp/

さて、遼太郎氏が守口に住んでいたことがあるというのは触れましたが、そのころを含めて幼少時代の遼太郎氏について、実妹で守口市在住の水谷弘子さんに林団員がお話を伺いました。
弘子さんは、遼太郎氏の1歳年下で、遼太郎氏が学徒出陣まで一緒に暮らしていたそうです。
遼太郎氏もそうですが、自分たちのことをメディアなどに話したことがないそうで、今回の取材も「守口・門真だけに流れるのなら」ということで応じていただけました。
詳しい内容はHPでは書けませんが、とてもおおらかな家族だったようで、その雰囲気が伝わってきました。
(詳しい内容は、再放送をお聞き下さい)
ちなみに水谷さんは遼太郎氏が文学賞を取られたときは「驚いた」そうです。

次回は「デパート物語 夏 デパートの見えない仕事を探る」です。
京阪百貨店のご協力で普段見かけないデパートの仕事を取材します。
posted by もりかど探偵団団員 at 11:50| 大阪 ☀| Comment(1) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月17日

国道1号線紀行

守口市内を走っている大幹線道路「国道1号線」
今回は1号線の謎を取材しました。

まず林哲也団員は淀川河川敷に。
このあたりは葉桜になっているということで・・・。
桜探しは終わったんですけど・・・。
と思いきや、その昔、京街道が今の河川敷を通っていたそうです。
一方の大森団員は、桜探し勝者のごほうびとして「運転手付きの車」で移動。(まあ、本人に運転させたら違う意味で罰ゲームですから・・・)
運転手は林容子秘書(メイド扱いされていましたが、そんな格好はしていませんので)。
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まず、元トラック運転手だったリスナーさんからの情報。
高速道路が無かったころは、東京まで半日以上かけて1号線を走っていたそうで、当時の1号線は現在の府道京都守口線にあたるそうで、大日の交差点は今のような感じでは無かったそうです。
今のようにコンビニなどが無い時代、1号線沿いの喫茶店に止めて休憩していたそうです。

さて、林哲也団員は河川敷付近を歩いてリポート。
今回も歴史ものでは準レギュラー化してしまっている尾崎さんにお話を伺いました。
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守口宿の回でも話題になりましたが、現在の八島交差点から守口小学校の前・水道局を通って河川敷へ抜ける道が、かつての京街道で、その流れから国道となりました。
今の八島からまっすぐ大日へ向かうルートは戦後になってからのことです。
当時は国道といっても今のような道ではなく、大八車がすれ違える程度の道幅だったそうです。




大森団員は、守口市竹町の菊田さんのお宅へ。
こちらに江戸時代からある蔵は、昔、八島交差点の真ん中(といっても交差点の真ん中ではなく、大日への道がなかったころの真ん中)にあったものを、蔵ごと竹町まで移動させたという驚くべきエピソードを伺いました。
それも1週間以上かけて、ゆっくりゆっくり動かしたそうで「コップの水がこぼれないほど」だったそうです。
最近も大阪市内でお知り合いの方の家を、そのまま移動させたそうですが、最近は重機などを使って動かすそうです。
貴重な建造物は、距離によっては家ごと動かすようです。
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林哲也団員は旧1号線にあたる府道北大日竜田線を尾崎さんと歩きながら、道沿いにあるサポショップの菓匠幸福堂勝秀さんへ。
若旦那のダンピールさんにお話を聞いたところ、この通りが1号線だったということは、話を聞いて知っていたそうで、今も高齢者に店の場所を説明する時は「旧国道」と言うそうです。
お店の前にある電柱には「旧国道」の文字が・・・。
尾崎さん曰く「旧国道と表示されているということは、このあたりの電柱は1号線が今のルートに変わってからできたものになる」とのこと。

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「お嬢様とお呼び!」とすっかり調子に乗っている大森団員は、運転手付きの車に乗って門真へ。
門真?
着いた場所は門真市稗島。
中央環状線から、なみはやドームの横を通って三ツ島に抜ける道が、地図では国道1号線のマークがあります。
なぜ、門真に1号線があるのか?
このあたりでは、現在第二京阪道路が工事中で、第二京阪が国道1号線のバイパスとして作られているもので、今ある道路はその側道になるということで、1号線扱いになるそうです。
(開通済みの枚方から先の側道も1号線のマークがついています。)

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ところで、1号線は昔「2号線」だったことを知っていましたか?
昭和20年台までは、国道に等級があり、東京−大阪の国道は二等国道で、その2号線だったというのです。(尾崎さんの解説より)

今回の放送で、大阪国道事務所・浪速国道事務所・守口市役所の各機関から資料をご提供いただきました。

次回は「もりかど職場体験シリーズ3 ボクシングジム」をお送りします。
posted by もりかど探偵団団員 at 15:31| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年01月30日

もりかど歴史探訪シリーズ 大塩平八郎の乱と守口・門真

社会の歴史の授業で聞いたことのある「大塩平八郎の乱」
この乱と、守口・門真の関わりについて調べてみました。

で、「大塩の乱」はなぜ起こったのか?
という疑問から解決しようということで、門真市教育委員会市史編纂課の常松さんにお聞きしました。
大塩平八郎の乱は1837年に、当時大阪東町奉行所の与力(今で言えば警察本部長クラスの役人)だった陽明学者の大塩平八郎は、米不足の折に役人や豪商の不正を正して民衆を救おうと、大阪近辺の農民などを仲間にして計画し、起こしたものでした。
結局は、幕府に鎮圧され、平八郎をはじめ乱に加わった者の多くが処刑されてしまいました。
この乱は、幕府を転覆させようといったものではなく、実情を分かってもらうために起こしたものだったのです。

基礎知識を学んだ後は実際に、ゆかりのある場所からの中継。
林団員は、平八郎が勤めていた大阪東町奉行所があった大阪合同庁舎1号館前から、平八郎が住んでいたところまでを歩いて移動。
家の跡は造幣局の敷地(官舎もあります)となっているそうで、昔も今も役人がからんだ場所だったようです。
ちなみに、大塩が乱の最初に大砲(といっても今でいうバズーカ砲のようなもの)を放った場所は、自分の家の向かいぬ住む与力の家だったそうです。(常松さん談)
一方、大森団員は、乱に守口から参加した白井孝右衛門(しらい こううえもん)が住んでいた母屋と書院(ここに平八郎が何度か訪れています)が残っている守口市竜田通1丁目へ。
現場の解説は、守口宿の回でもお世話になった寝屋川市教育委員会市史編纂課の尾崎さんにお願いしました。
書院は残念ながら見ることはできませんでしたが、母屋を見せていただきました。

そのあと、大森・尾崎コンビは門真市堂山町にある茨田公園へ。

ここは、門真から乱に参加した庄屋、茨田郡士(まった ぐんじ)の家があった場所です。
郡士は孝右衛門を通じて平八郎と知り合い、陽明学を勉強していたということです。
この場所には昭和の時代まで、郡士の子孫が住んでいましたが、途絶えてしまったため、門真市が後を継ぎ、ここを公園にしたということでした。
邸宅跡を取り壊す際に、古文書が出て来て、貴重な資料となったそうです。
また、2年ほど前には門真市立歴史資料館で企画展示が行われていました。

一方、林団員は大塩の墓がある成正寺(じょうしょうじ)へ。
乱に参加した人の墓は当時は作られず(尾崎さんによれば「罪人の墓は作られない」とのこと)、後世になって作られたものだそうです。

歴史の教科書で少ししか分からなかった出来事も、スタジオの常松さんと現場の尾崎さんの分かりやすい解説で、大塩の乱が身近に感じられたのではないでしょうか?

ちなみに放送では触れられませんでしたが、寝屋川からも乱に参加しようと大阪へ向かった者がいましたが、着いた時には、もう鎮圧されていたため逃げ帰ったというエピソード(尾崎さん談)などもあったそうです。
posted by もりかど探偵団団員 at 00:00| 大阪 | Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする